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2007.10.30

思想・信条を理由とする裁判員の辞退を認めなくてよいか?

 法務省は、10月24日、裁判員に選ばれた人の辞退事由を定めた政令案を公表した。法務省は、今後、この政令案についてパブリックコメントを実施し、年内にも政令を公布する方針であると伝えられている。

 「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下「裁判員法」という)を審議した国会において、「人を裁くのは信念に反する」「死刑制度に反対ている」など思想信条を理由とする辞退を認めるかどうかが議論になった。政府・与党は、思想・信条を理由とする裁判員の辞退事由について、思想・信条を理由とする辞退を認めることを前提に、それを政令で規定することが政府・与党の考えであった。

 そのことを明言したのは、政府(小泉前首相)の答弁書であり、そこでは、次のように述べられていた。

 本法においては、裁判員となることを法律上の義務としているが、裁判員の職務を行うことが当該個人の思想・良心の自由や信教の自由等の憲法上の権利を侵すこととなるような事態は許されないので、そのような場合が本法第16条第7号の「政令で定めるやむを得ない事由」に含まれることをこの政令において明らかにすることを考えている。

と述べていた。

 法務省刑事局刑事法制管理官室が、2006年10月25日から同年12月25日まで、この点に関するパブリックコメントを求めた際に、日本弁護士連合会は、裁判員になることが、思想・信条の侵害になる場面はほとんど考えられず、思想・信条の侵害となりうるのは宗教上裁判に関与してはならないという教義があるような場合しか考えられないとの意見を述べて、「いわゆる『思想・信条』を理由とする辞退事由を政令に定めるべきではない。」との意見を述べている。
 これは、裁判員に思想・信条を理由とする辞退を認めたら、辞退者が続出して、裁判員制度が崩壊することを恐れたものと考えられ、その意味において、極めて政治的な意図に基づいた意見であったと言える。

 法務省が今回公表した政令案は、妊娠などを新たに辞退事由とするとともに、これに加えて、「自己または第三者に身体上、精神上、経済上の重大な不利益が生じると認められる場合」という抽象的な規定を盛り込んだが、思想・信条による辞退事由は明記されなかった。

 法務省は、この政令案について、「裁判員は広い層から選任されることが望ましいが、同時に候補者の負担が重くならないよう配慮した。ただし、辞退を求める人は、裁判官に『不利益』の具体的内容を説明する必要が出るだろう」と説明しているという。

 ところで、思想・信条との関係でもっとも問題となりうるのは、死刑制度に対する各人の考え方であり、特に、死刑廃止論の立場に立つ市民の思想・信条である。

 裁判員制度が対象とする事件は重大事件であり、死刑を言い渡すかどうかが問題となる事案についても裁判員が取り扱う可能性がある。その場合に、有罪とすることが評決で決まった後、量刑の問題を審理する際に、裁判員は、死刑か無期刑かの選択を迫られる可能性がある。

 裁判員法は、全員一致ではなく、多数決で評決を決めることになっているため、死刑制度に反対する裁判員が無期刑を主張しても、多数決で死刑が決まり、結論として死刑判決が言い渡される可能性がある。

 その結果、死刑廃止論者である裁判員も、その死刑判決に関与したことになるが、その場合に、果たして、その裁判員の思想・信条を侵害しないと言えるのかが問題である。

 前に紹介した日弁連による法務省のパブリックコメントに対する意見の中では、このような場合にも、その裁判員は、死刑に反対する意見を述べることができるから思想・信条は侵害しないと考えているようであるが、それは、思想・信条について、非常に形式的かつ表面的に捉えているように思われる。

 ところで、思想・信条を理由とする裁判員の辞退を認めるかどうかについては、この裁判員制度それ自体の評価と大きく関わっていると考えられる。

 裁判員制度について、国民に新たな義務を課す制度であり、国民に苦役を課す制度であるから憲法違反であるとして、裁判員制度について消極的・否定的な意見も存している。このような立場からすれば、思想信条を理由とする辞退を認めないことは、なおさら憲法違反ということになるだろう。

 これに対して、前に紹介した政府・与党の見解は、裁判員制度それ自体を肯定的に捉えた上で、新しい制度導入に対する国民の強い抵抗を考慮して、思想・信条を理由とする裁判員の辞退を認めることを公言していたものであるが、今回の法務省の政令案では、それが明記されなかったのである。

 読売新聞が今回の政令案を報道した際に、「例えば、死刑制度に反対しているにもかかわらず、明らかに死刑判決が予想される事件に呼び出された人は、内心の葛藤を考慮して辞退が認められるとみられる。」と報道している(読売新聞の記事)。
 これは、おそらく、法務省の記者会見の際に、そのような示唆がなされたものと考えられる。しかしながら、政令案は、身体上、精神上、経済上の「重大な不利益」が生じると認められる場合に辞退事由を限定しているから、裁判所が、その裁判員候補者について、「重大な不利益」が認定できない場合には辞退は認められない可能性は極めて高い。

 最終的には、この点は裁判官の個々の判断に委ねられることになるが、通常、裁判官は非常に判断に慎重的であり、法律や政令に明確な文言がない場合に、それを弾力的に解釈するようなことはしない。

 その結果、裁判所は、この政令を非常に限定的に運用して、辞退を認めない可能性が極めて高いと考えられるし、裁判官によってその判断が分かれて、不平等な運用がなされる可能性がある。

 このように考えると、思想・信条を理由とする辞退事由を政令に明記しないことによって、裁判員候補者の思想・信条を理由とする辞退はほとんど認められないことになると考えられるのである。

 ちなみに、今年の通常国会における法務委員会での審議の中で、裁判員候補を選任する際に、裁判官が候補者に対して、「絶対に死刑を選択しないと決めているか」という趣旨の質問をし、その回答によっては、候補者が公平な裁判をしないおそれがあるか、または理由を付さないで、裁判員から排除することができることが明らかにもなっている(実際には、検察官が、理由を付さないで、そのような裁判員候補者を排除する可能性が高いと考えられる)。

 そうすると、死刑廃止論者は、思想・信条を理由として裁判員を辞退することはできないが、結果的には、裁判員の選任手続において排除される可能性がある。
 この事態は、結局、国民にとっては、裁判員を辞退する権利は認めないが、裁判員裁判からは排除されることを意味する。

 国民主権の下で、国民の司法参加を実現しようとするならば、思想・信条を理由に裁判員裁判には関わりたくないという国民の辞退する権利は認めるべきであったと思うし、そもそも、思想・信条を裁判員の辞退事由とするか否かという極めて重大な事柄については、政令ではなく、法律を制定する段階で十分に議論を尽くしておくべきであった。
 ところが、法律制定の段階であまり議論しないで、それを政令に委ねた上で裁判員法を制定したこと自体に大きな問題があったと言うべきであろう。

 その意味においては、裁判員制度の制度設計自体に大きな問題があったと言うべきである。裁判員制度は、2009年5月から実施される予定となっているが、今回の政令案の公表でほぼ制度設計が完了したと言える。

 しかしながら、裁判員制度は、現在に至るも国民の理解はほとんど得られていない状態であり、今回の政令案の公表によって、ますます、国民に対する不安を増幅したのではないだろうか。

 2007年10月29日付の北海道新聞の社説は、「裁判員制度 この仕組みで大丈夫か」と題して、「2009年5月までの予定を遅らせてでも制度を再検討してはどうか」という思い切った提言をしている。

 改めて、裁判員制度について、果たして現在の制度設計のままで、予定通り2009年5月から実施すべき否かについて、この段階で、冷静な議論をすべき時が来ているのではないだろうか。

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Comments

パブリックコメントは締め切られましたが、先生はコメントを提出されましたか?

Posted by: 通りすがり | 2007.12.06 at 10:04 AM

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