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2009年2月

2009年2月28日 (土)

【映画】「少年メリケンサック」

映画「少年メリケンサック

監督・脚本 宮藤官九郎
エグゼクティブプロデューサー 黒澤 満
プロデューサー 岡田真、服部紹男
撮影 田中一成
美術 小泉博康
編集 掛須秀一
音楽 向井秀徳
製作年度 2008年
製作国 日本
上映時間 125分
配給 東映

 宮藤官九郎の監督2作目となる作品である。

 レコード会社に勤めるかんな(宮崎あおい)は、動画サイトでイケメン4人組のパンクバンド「少年メリケンサック」のライブ映像を発見し、レコード会社の社長に勧めたところ、その社長(ユースケ・サンタマリア)は若い頃にパンクが好きだったということから、かんなに彼らとの契約をとるように命じる。

 ところが、彼らと契約するためにメンバーに会いに行くと既に50歳過ぎのオヤジで、かんなが見た映像は25年前の解散ライブの時のものだった(かんなは、そこに書かれていた1983年を誕生日だと誤解していた)

 しかし、既に社長が本気になり、ホームページで告知したところ、全国からライブのオファーが殺到し、この中年バンド(佐藤浩市、木村祐一、田口トモロヲ、三宅弘城)と一緒に全国でのライブツアーに同行することになる。 最初は散々の出来だったが、徐々にライブが盛り上がるようになり、最後にはテレビ出演を果たし、全国的に有名になるというストーリー。

 映画では、途中で、インタビューが挿入されるなど、ドキュメンタリー風に撮られ、基本的にはロード・ムービーだが、それぞれの場面で昔の回想シーンが挿入されるなど、なかなか凝った作りで、回想シーンを見て行くと、ギター(木村祐一)、のとベース(佐藤浩市)の兄弟間の確執の真相が徐々に分かってくる。

 この作品では、宮藤監督が雑誌のインタビューで述べていたが、「下品さ」にこだわっており、随所で下品なネタが出てくる。これに堪えられない人にはあまりお勧めできないが、パンクが持っている猥雑さを表現していると思った。

 私も学生時代に、アナーキーというバンドのパンクをよく聴いていた。当時は、スターリンなども話題になっており、若者がパンクで熱くなっていた時代だった。セックス・ピストルズも衝撃的だった(この映画の中でも、メンバーがセックス・ピストルズの再結成が批判的に語るシーンがある)

 良くも悪くも、パンクにはスピード感や熱狂感があり、それが若者を熱くさせていたんだと思う。
 それが、その後、ダンス・ミュージックにとって変わられ、健全な音楽が主流となっていった。

 この映画は、そういうパンクの持っていたエネルギーや疾走感を伝え、パンクの持っていたパワーを伝えてくれる作品だと思う。多くの若者がこの映画を見に行っているというのは、うれしいことだと思う。

 こういうテーマをエンターテイメント作品にしてしまうあたりが宮藤監督の才能だと感じた。

【参考になる映画評】
Love Cinemas 調布
日々“是”精進!

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2009年2月24日 (火)

【映画】「おくりびと」

映画「おくりびと

監督:滝田洋二郎
脚本:小山薫堂
音楽:久石譲
撮影:浜田毅
照明:高屋斎
録音:尾崎聡
製作年度 2008年
上映時間 130分

 祝・第81回アカデミー賞外国語映画賞受賞!

 この作品を観たのは、昨年の秋であったが、今回の受賞を受けて、再度、見に行ったので、紹介しておきたい。

 東京で楽団をクビになった主人公(本木雅弘)が、地元に戻って職探しをする中で、納棺師の仕事を始める、様々な偏見の中、妻(広末涼子)が、その仕事をやめて欲しいと言い、それを受け入れてくれなかったことから別居して実家に戻ってしまう中、黙々と納棺師の仕事を続ける主人公。
 やがて、妻も、その仕事を理解するようになり、妻の勧めで、生き別れていた父親の納棺の仕事をするという作品である。

 本作品は、「納棺師」という仕事があることを私たちに知らせてくれるとともに、私たちにとって、改めて、「死」とは何かを考えさせられる。

 映画のラスト近くで、「死とは門である。それは新たな旅立ちへの門である。」との台詞が語られ(この作品の英語題は「Departures」であるという)、その旅立ちを手伝う「納棺師」の仕事の重要さを改めて教えてくれている。

 この作品は、庄内平野の美しい風景とともに、主人公をめぐる心の動きとその成長ぶりが描かれており、その中で、師弟関係や夫婦愛についても描かれている。

 再度見た印象では、納棺師についての師弟関係の中で、主人公が自分の一生の仕事にできるかどうかを迷いながらも成長していく姿がよく描かれている。

 また、随所にユーモアや笑いもあり、最後まで、飽きることなく一気に見せられる作品となっている。

 主人公は、「自分の人生が一体どうなるのだろう」と自問自答しながらも、目の前にある納棺師の仕事を淡々とこなす中で、やがて自分の仕事に自信を持つようになっていく。

 この作品では、主人公の納棺の所作が大変に美しく、思わず見惚れてしまう。

 

 この映画は、アカデミー賞をとったことによって、特にその意味が変わった訳ではない。生と死についてや、人生について考えるについて、日本人としては、是非とも観るべき映画だと思う。

 この映画は(既に国内・国外で多数の賞を受賞していたが)今回、アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことも大いに頷ける素晴らしい作品に仕上がっている 

 是非、多くの日本人に見てもらいたい優れた作品である(3月18日にはDVDが発売される予定となっている)

【注 本文を2009.3.9に加筆・改訂した。】

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【映画】「チェンジリング」

映画「チェンジリング

監督・製作・音楽 クリント・イーストウッド
脚本 J・マイケル・ストラジンスキー
製作総指揮 ティム・ムーア、ジム・ウィテカー
製作 ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ローレンツ
撮影 トム・スターン
美術 ジェームズ・J・ムラカミ
制作年 2008年
製作国 アメリカ
上映時間 142分

 シングルマザーの一人息子が行方不明になり、その5か月後に見知らぬ少年を警察に押し付けられた母親が、警察と闘いながら、真実を明らかにしようとする姿を描いた作品であり、実話を映画化した作品である。

 チェンジリングとは「取りかえ子」の意味であり、人間の子を欲しがる妖精が子供をさらったあとに人形や別の醜い子を残していくという民間伝承の言葉のようである。

 主人公の母親(アンジェリーナ・ジョリー)は、ロサンゼルス郊外で、9歳の息子と暮らしていたが、ある日、突然、息子が失踪してしまう。5ヶ月後に警察から息子が見つかったという連絡を受けて駅に行くと、それは息子ではない別人の子どもだった。しかし、当時、腐敗して市民からの批判を浴びていたロス市警は、その子どもが息子だと言い張り、抗議する母親の話を聞こうとせず、マスコミに真実を訴えようとした母親を精神病院に送り込む。

 主人公の母親を支援するグスタブ・ブリークレプ牧師が、精神病院から救出し、以後、プロボノで協力してくれる弁護士を紹介し、市当局を告発し、市議会で公聴会が開かれる。その中で、ロス市警による人権侵害の事実が次々と明らかにされ、担当警部の無期限停職と、警察本部長の解任が決議される。

 他方、その頃、ロス近郊の牧場で、大量の子どもが殺されて死体が埋められていることが発見され、その犯人が逮捕され、その刑事裁判が開かれて死刑が言い渡されるが、犯人は、主人公の母親の息子を殺していないと言ったり、殺したと言ったりして、最後まで何が真実か分からないまま、主人公は翻弄される中、死刑が執行されてしまう。

 その後、事件から5年以上経過して、牧場から逃げ出した子どもが現れてロス市警に保護され、その子どもから、主人公の息子が一緒に逃げようとしたことを聞かされ、主人公は、再び、自分の息子が死んでおらず、どこかに生きていると信じて、希望を持つところで映画は終わる。

 本作品は、息子を思う母親の強靱な精神力や行動力が描かれており、色々な人たちに助けられながら、少しずつ強く成長していく様子が感動的に描かれ、最後まで息子のことをあきられず希望を持って生きようとする姿が涙を誘う。

 これが実話とは思えないほどドラマチックに展開し、ロス市警の腐敗と、子どもばかりを狙った連続誘拐殺人犯の暴力性の前で立ち尽くす主人公の正義を求める姿が対比的に描かれている。
 そして、主演のアンジェリーナ・ジョリーは、この母親を見事に演じきっている。

 映画は、全体として、淡々と描かれ、最後に静かな感動を呼び起こして、心穏やかな気持ちで見終わることができる。あちこちで、クリント・イーストウッド監督のこの作品について、「名人芸」というような賞賛がされているが、まさにそういう印象を受けた。

 このような史実があるということを知るという意味においても、また、勇気をもらえるという意味においても、観るべき価値のある映画だと思った。 

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【映画】「ディファイアンス」

映画「ディファイアンス

監督・脚本・製作 エドワード・ズウィック
脚本 クレイトン・フローマン
製作: ピーター・ジャン・ブルージ
製作総指揮 マーシャル・ハースコヴィッツ
原作 ネカマ・テク
撮影 エドゥアルド・セラ
製作年 2008年
製作国 アメリカ
上映時間 136分

 ユダヤ人の大量虐殺が行われていた第二次世界大戦中に、ベラルーシに住むユダヤ人の3兄弟が約1200人のユダヤ人の生命を救った実話を映画化した作品。

 第二次世界大戦中、ドイツ軍によるユダヤ人虐殺が行われる中、ユダヤ人レズシスタンス(抵抗運動)は、その当時で2~3万人いたと言われるが、これまであまり知られていなかった。

 弱々しく、虐げられるだけのように描かれてきたユダヤ人のストーリーと本作品が異なっているのは、この映画では、ナチス・ドイツに両親を殺されたユダヤ人であるビエルスキ3兄弟が、ユダヤ人同胞を救済し、共同体を作って何年もに及ぶドイツ軍との闘争に立ち向かう姿が力強く描かれている点である。

 ビエルスキ3兄弟のうちの長男であるトゥビィア(ダニエル・グレイブ)は共同体のリーダーとして、強いリーダーシップを発揮し、厳しい規律を定め、それを徹底しながら、仲間との絆を強めつつ、仲間を守っていく。本作品では、ドイツ軍との闘争も描かれているが、むしろ共同体の中での葛藤が多く描かれている。そこには、現代にも通じる、あるべきリーダー像が描かれている。

 第二次世界大戦中のユダヤ人救済の話としては、「シンドラーのリスト」などの作品があるが、この作品はユダヤ人自身が、同胞を救済するために勇気を持って立ち上がった歴史上の事実を私たちに教えてくれる作品であり、もっと多くの映画館で公開してもらいたいと感じた。

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【映画】「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生

監督:デヴィッド・フィンチャー
製作:キャスリーン・ケネディ、フランク・マーシャル、セアン・チャフィン
脚本:エリック・ロス
撮影:クラウディオ・ミランダ
製作年度 2008年
上映時間 167分

  第一次世界大戦終了時から21世紀に至るまでのニューオリンズを舞台に、80代の老人の姿で生まれ、徐々に若返っていく男性(ブラッド・ピット)の数奇な運命が描かれた作品である。

 主人公は、老人の姿で誕生し、そこから徐々に若返っていく運命のもとに生まれた男ベンジャミン・バトン。数奇な人生を運命づけられた彼は、多くの人たちの出会いと別れを経験しながら、人生の喜びや死の悲しみを知りながら、時間を刻んでいく。
 その中で、愛する人(ケイト・ブランシェット)との出会いと別れを経験しながら、一生、その女性を愛し続けていく姿が描かれる。

 粉川哲夫「シネマノート」によると、本作品の原作(フィッツジェラルド『The Curious Case of Benjamin Button』(1922))では、ベンジャミンは、1860年に生まれ、1920年代に死ぬことになっているが、本作品では、その時間軸が、第一次世界大戦直後からにずらされている。そのため、主人公は、日本による真珠湾攻撃による第二次世界大戦の開戦やアポロ・ロケットの打ち上げに立ち会っている(この辺りは、本作品の脚本を「フォレスト・ガンプ/一期一会」の脚本を手掛けたエリック・ロスが脚本を担当していることによるものと考えられ、個人史と同時代性が描かれている)

 本作品は、第81回アカデミー賞で、美術賞、視覚効果賞、メークアップ賞をとったが、いずれも納得であるが、それ以外の賞がとれなかったのは残念であった。

 この映画は、観る者に対して、「人生とは何か」を問いかけている。老人から子どもへと、普通とは逆に成長していく主人公の目を通して、人との出会いと別れの繰り返しを鮮明に
意識づけてくれる。

 そして、「時の流れ」というものについて、その運命性や残酷性も示してくれるとともに、そのはかなさを教えてくれる。

 この映画の主人公は、若い時に、売春宿を経験し、酒や女の良さを知るなど、俗物的な、どこにでもいるような人間として描かれている点に好感が持てた。

 この映画を見終わると、ある人の人生を一生分経験したような、そんな充実感と満足感を感じさせてくれる不思議な作品である。

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【書籍】原 寿雄「ジャーナリズムの可能性」

原 寿雄「ジャーナリズムの可能性

定価 735円(本体 700円 + 税5%)
判型 新書判(岩波新書)
発売日 2008年1月20日
ISBN978-4-00-431170-6

 本書は、原寿雄さん(ジャーナリスト、元共同通信編集主幹)による岩波新書である。原さんには同じ岩波新書で『ジャーナリズムの思想』(1997年)があるが、本書はその続編のつもりで執筆されたという(本書はじめに)。

 本書は、以下の9章からなっている。

序 章 問われるジャーナリズムの権力観
第1章 権力監視はどこまで可能か
第2章 強まる法規制と表現の自由
第3章 ジャーナリズムの自律と自主規制
第4章 放送ジャーナリズムを支えるもの
第5章 世論とジャーナリズムの主体性
第6章 ジャーナリズムは戦争を防げるか
第7章 ジャーナリズム倫理をいかに確立するか
終 章 ジャーナリズム再生をめざして


 本書には、つい最近まで、メディアをめぐって起きた様々な出来事が取り上げられ、ジャーナリズムという観点からの評価が述べられており、実に刺激的である。
 例えば、警察裏金報道(本書34頁以下)、NHK番組改編事件(同72頁以下)、「発掘!あるある大辞典Ⅱ」番組捏造事件(同94頁以下)、光市事件報道(同124頁)などがそれである。

 また、本書では、ジャーナリズムが、戦争についてどのような役割を果たすことができるかについて、戦前のメディアの対応と、911以降、特にイラク戦争へのメディアの対応について論じているが、非常に考えさせられる内容である。

 本書は、ジャーナリズムは、「権力監視の番犬(Watch Dog)」として、あくまでも民衆から付託された権力の監視や社会正義の追及という役割を担うべきであるという立場に立っている(本書はじめに、同26頁)。

 「ジャーナリズムは権力を監視し、社会正義を実現することで、自由と民主主義を守り発展させ、最大多数の最大幸福を追求する。人権擁護はもちろんのこと、自然環境の保護も、人間性を豊かにする文化の育成も、ジャーナリズムに期待される機能である。」(同書194頁)

 この部分に、本書での主張が端的に要約されていると言えるだろう。その上で、原さんは、デジタル化、他メディア化の時代に、ジャーナリズムがどのように生き残っていくべきかを終章で論じている。

 最近の政治報道を見ても、メディアが権力に逆らうのではなく、うまく利用されてしまって、権力監視の役割を十分に果たしていないように見える。そのような中で、本書の主張は新鮮であり、情報の受け手である私たち市民にとっても必読の書であると感じた。

 読者であり、情報の受け手である私たちは、日本のメディアが今のままでは駄目であり、変わらなければならないという声をあげることが求められているように感じた。

【2009.2.28追記】

 この本を読んで、改めて、ジャーナリズムというのは、時には違法行為をしてでも、市民に伝えるべき情報を伝達すべきであるということを感じた。残念ながら、日本のジャーナリズムは、大変にお行儀がよく、権力には決して逆らわないという特色がある。権力と闘うということは、時には逮捕され刑事裁判にかけられることを覚悟してでも、情報源にアクセスし、ネタを掴み、それを報道することが求められているはずである。マスコミは、市民に対して違法行為をすべきではないことは当然としても、権力に対しては、時には違法行為も覚悟してやるべきである。

 本書では、菅生事件に触れつつ、原さんは、次のように述べている。

  「民主主義は多数決の原理で運営される。これに対して表現の自由は、『たった一人の異端の自由を保障するもの』であり、多数決原理と衝突する。」、「ジャーナリストとして、世の中の大勢に流されずに、“非国民”と呼ばれることに臆せず生きる道は、自由人に徹するしかない。」(同書172頁)

 新聞社やテレビ局も会社である以上、コンプライアンス(法令遵守)が求められるが、ジャーナリズムの本質からすれば、それは対市民との関係でのもので、対権力との関係ではその例外があると考える必要がある。

 なお、醍醐教授による本書の書評が優れていると思うので、是非お読みいただきたい。なお、私は、原さんの主張は、ラジカルというよりも、リベラルだと思う。今の時代においては、リベラルな姿勢を貫くことこそが大事ではないかと思う。

【参考になる書評】

醍醐「ジャーナリズムの真髄をラジカルに綴った警世の書:原寿雄『ジャーナリズムの可能性』(岩波新書、2009年1月刊)を読んで」

美浦克教「読書:「ジャーナリズムの可能性」(原 寿雄 岩波新書)」

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2009年2月 4日 (水)

【書籍】浜田寿美男「心はなぜ不自由なのか」

浜田寿美男「心はなぜ不自由なのか

定価 777円(本体価格740円)
判型 新書判
発売日 2009年01月15日   
ISBN 978-4-569-70510-1

 発達心理学者である浜田寿美男教授(奈良女子大学文学部)による新書。内容は、連続講座「人間学アカデミー」第3期(2003年9月~2004年7月)の講義録をもとに編纂されたもので、3回の講義が収録されている。

第1回講義 取調室のなかで「私」はどこまで自由か
第2回講義 この世の中で「私」はどこまで自由か
第3回講義 「私」はどこまで自由か

 私自身は、このうち、第1回講義の内容に関心があって、本書を購入した。

 過去の冤罪事件において、本人はやってもいないのに「自白」することは多くある。特に、罪を認めたら死刑になるような事件においても、虚偽の「自白」をさせられているケースは多い。
 おそらく、ほとんどの市民の人たちは、自分がやってもいないことを「自白」することはありえないと考えるだろう。そして、裁判官も、この「常識」的な判断に支配されており、過去に、この種の「自白」がある事件をほとんど有罪にしてきた。

 刑事裁判の実務では、捜査段階で「自白」がとられ、自白調書が存在する事件においては、裁判所が、その「自白」について、任意性がない、すなわち、自由になされたものではない「自白」であると判断することは稀であり、無罪にする場合でも、任意性は否定しないが、その信用性を否定するのが普通である。
 例えば、昨年話題になった鹿児島県の志布志事件(選挙違反事件)の無罪判決においても、任意性は否定せずに、その信用性を否定して、「虚偽自白」だとしている。

 浜田寿美男さんは、かねてから、「虚偽自白」の心理学的な分析を数多く行い、この分野での第一人者となっている。本書では、自分が特別弁護人として関わったいわゆる甲山(かぶとやま)事件などの経験を通して、取調室において、被疑者は「自由」か、という問題を論じている。
 浜田さんには、既に、これまでに、「自白の研究―取調べる者と取調べられる者の心的構図【新版】』(北大路書房、2005年) という大著もあり、また、「自白の心理学」(岩波新書、2001年)や「取調室の心理学」(平凡社新書、2004年) Iなど、この問題について何度も取り上げて論じられている。

 本書の第1回講義では、そのエッセンスが、「自由」という観点から書かれており、裁判員裁判に関心がある市民には是非読んでいただきたい内容となっている。

 本書の第2回講義では、「羞恥心」という観点から、人がどれだけ「自由」かについて様々な角度から論じ、第3回講義では、昆虫と人間の比較などを通じて、やはり、人はどれだけ「自由」かという問題を論じている。正直言って、この第2回講義と第3回講義の内容は、いろいろな実例を通して語られてはいるものの、かなり難しい内容となっているように思う。

 ただ、本書は、「自由」と「不自由」が相対的なものであること、そして、人にとって、「自由」が拡がっていくほど、「不自由」も拡がっていることなどを教えてくれる。このような理解は、第1回講義で語られる取調室での「不自由」さを理解するのに役立つと言える。

 人間心理を理解する上で、本書は一つの視点を与えるという点で、本書は実に示唆に富んだ本だと思う。

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【映画】「マンマ・ミーア!」

【映画】「マンマ・ミーア!」

監督 フィリダ・ロイド
製作総指揮 ベニー・アンダーソン 、ビョルン・ウルヴァース 、リタ・ウィルソン 、トム・ハンクス 、マーク・ハッファム
脚本 キャサリン・ジョンソン
音楽 ベニー・アンダーソン 、ビョルン・ウルヴァース
製作年度 2008年
上映時間 108分

 全世界170都市以上で上演され、空前の大ヒットを記録した同名ミュージカルの映画化作品である。

 舞台はギリシャのエーゲ海に浮かぶ小さな島。島でホテルを経営する母(メリル・ストリープ)の女手ひとつで育てられた娘(アマンダ・セイフライド)の結婚が決まり、母親の日記に記してあった3人の父親候補に、母に内緒で結婚式の招待状を送る。島に来た3人の父親候補の全員から自分が父親で結婚式でエスコートしたいと言われて困惑するまま、結婚式を迎えるが・・・というストーリー。

 この作品は、全編にわたりABBAのヒット曲を満載したミュージカル映画であり、若い頃に何度も聴いたあの曲、この曲が次から次へと登場し、「ここでこの曲が来るか」と楽しめる。もっとも、原曲の美しいボーカルと比較すると、役者さんのボーカルは若干違和感を感じる箇所もあり、映画を見終わった後、ABBAの美声を聞き直したいと思わせられた(実際に、ABBAのベスト盤「GOLD」を買って聞いた)。

 ストーリーは、結婚式を迎える娘が主役かと思いきや、やはり、主演のメリル・ストリープが主役の映画だった。その意味で、この映画を観るのは若者向きというよりも、アラサー以上の女性向きの映画かもしれない。

 最近は、ミュージカルが映画になるケースが多いが(最近では「シカゴ」)、この傾向は続きそうである。

 本作品は、改めて、ABBAの楽曲の素晴らしさやその歌詞の深さを教えられ、見ていて元気にさせられた。アメリカの映画館では、観客のみんなが一緒に歌って盛り上がったようである。そういう映画も珍しい。

 特に、この映画でもっとも盛り上がるのは「Dancing Queen」であり、ラストを飾ってもいる。ただ、この映画の本当のラストに流れる「Thank you for the music」もしっとりとしたバラードでエンディングにふさわしい。

 ある程度、人生で苦労して、ABBAが好きな女性には、特にお勧めできる映画である。

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2009年2月 3日 (火)

【雑誌】特集「市民と法律家で考える裁判員制度」(法と民主主義2009年1月号)

特集「市民と法律家で考える裁判員制度」(法と民主主義2009年1月号)

雑誌 法と民主主義2009年1月号(第435号)
発行 日本民主法律家協会
発行責任者 澤藤統一郎
発行日 2009年1月5日
定 価 1000円

 私は、日本民主法律家協会に所属しているわけではないので、特集の内容を見て、年に何回か、この雑誌を買って読んでいる。
 今号の特集は、2009年5月21日に施行される裁判員制度について、実に様々な立場や角度から多角的に考える記事で構成されている。
 大きく3部構成となっており、市民代表と法律家との対談、2008年11月27日に実施された法律家3団体共同シンポジウム「市民と法律家で考える裁判員制度」での発言内容、裁判員制度に対して寄せられた市民の意見からなっている。

◆特集にあたって……編集委員会
◆対談・「裁判員制度」を日本の刑事裁判を良くする方向に……周防正行・五十嵐二葉
◆冤罪・誤判の防止と裁判員制度実施への課題……今村 核
◆それでも、「裁判員制度」の鍵を握るのは市民……伊藤和子
◆今 何を考え 何をなすべきか……小田中聰樹
◆裁判員・刑事司法制度に立ち向かう国民救援会の立場……本藤 修
◆市民から見た裁判員制度──司法権行使の手段としての裁判員制度……上口達夫
◆被害者参加制度と裁判員制度……片山徒有
◆コリンP.A.ジョーンズ著・『アメリカ人弁護士が見た裁判員制度』を読む……齊藤園生

 まず、何と言っても、最初の対談がスリリングで面白い。映画「それでもボクはやってない」の監督である周防氏と、五十嵐二葉弁護士の対談は、現在の日本の刑事裁判のあり方のおかしさを次々に明らかに、それらをそのままにした上で、今、何故、裁判員制度なのかを問いかけるものとなっている。周防監督は、多くの刑事裁判を実際に傍聴した経験から、弁護士にとっても耳の痛い批判をしている(弁護士は「なぜこんなにしゃべれない人が多いのだろう」とか、「なぜそんなに裁判官にへこへこしなければいけないのか」など)。
 この対談から、いかに日本の刑事裁判が異常であり、それを許容しているマスコミや日本の社会がおかしいかが伝わってくる。
 そして、この対談では、今回の裁判員制度は、決して冤罪をなくすためではなく、権力の側のために導入されたものであることを厳しく批判している。二人のどの発言も、多くの市民の人たちに是非読んで貰いたい内容であふれている。

 今村核弁護士(「冤罪弁護士 旬報社、2008年がある)と伊藤和子弁護士(「誤判を生まない裁判員制度への課題現代人文社、2006年がある)の論考は、弁護士の立場から見た公判前整理手続や裁判員裁判の問題点を、かなり個別具体的に展開している。

 特に、伊藤和子弁護士は、アメリカの陪審制度との比較の中から、超短期審理の問題や、証拠開示の不十分さなどを指摘しており、非常に説得的である。

 刑事法学者である小田中聰樹・東北大名誉教授(「裁判員制度を批判する花伝社、2008年など多数がある)は、司法改革が、戦後民主的司法に対するアンチテーゼであり、司法を国民統治の手段性の強い制度に組み替えようとする動きであると喝破した上で、裁判員制度が民主主義や当事者主義に反するものであると批判し、廃止する追い込むしかないと力強く論じている。

 これ以降の論考では、市民の立場からみた裁判員制度に対する批判や期待などが述べられ、最後は、コリン・P・ジョーンズ弁護士による「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」(平凡社新書、2008年)についての齋藤園生弁護士による書評で締められている。

 この特集は、全体的には、裁判員制度に批判的な立場からの意見で占められているが、立場によって、その論じ方や意見は実に様々であることを教えてくれる。それは議論が自由であることを示しているとも言えるが、裁判員制度への反対論の論調が一致しないために、有効な反対になりえていないという面も示しているかもしれない。

 2009年2月1日放送のフジテレビ「サキヨミ」は、先日、東京地裁で審理が行われた江東区OLバラバラ殺人事件をとりあげて、検察による裁判員制度を意識した多数の骨をモニターに映し出したり、被告人に死体をバラバラにした経緯について供述させたことや、被害者遺族の証人尋問の際に、被害者の生前の写真をモニターに次々と映しながら証言させたことを取り上げ、アメリカの陪審制度の下ではどのように扱われているかを取り上げた(弁護士 落合洋司(東京弁護士会)の 「日々是好日」で取り上げられている)。

 その番組では、アメリカは、長い陪審制度の歴史があることから、法廷で提示できる証拠について、アメリカの連邦証拠規則において、陪審員に不当な偏見を与えないための詳細なルールが定められているのに、日本ではそのようなルールがないという指摘がなされていた。

 日本の裁判員制度では、アメリカの陪審制度と異なって、裁判官が3名入っていることから、そのようなルールがなくても、裁判官が適切にコントロールするだろうという期待から、特別なルールが新たに作らなかったと考えられますが、日本の裁判官は、えてして「できるだけ多くの証拠を見たい」という性向を持っていますから、裁判官のコントロールにはあまり期待できないと考えられ、この点においても裁判員制度には欠陥があるのではないかと感じた。

 特に、今回の江東区OLバラバラ殺人事件で、検察官による被害者の母親に対する証人尋問の際に、その最後に、マンションのゴミ捨て場の写真と、ゴミが堆積された「夢の島」のような写真をモニターに映して尋問した点については、証拠上、ゴミ捨て場に遺体を捨てた証拠もないのに行われたもので、明らかに誤導的な尋問として制限されるべきだったと思うが、そのような尋問が誰からも制止されることなく行われたということは衝撃的であった(弁護人は異議を述べなかったのだろうか)。

 「サキヨミ」では、アメリカでも、被害者遺族が、被害者の生前をしのぶビデオを作成し、それに被害者が好きだったというエンヤの音楽を付けたものを陪審員に上映したことが最高裁まで争われたが合憲の判断を受けたということが報じられていたが(最高検察庁検事は、映像に音楽を付けることについては否定的なコメントをしていたことは辛うじて救いがあると言える)、これなども、今後、日本の裁判員裁判において、被害者遺族に対する証人尋問や、被害者参加人の意見陳述の際にも利用されるようになる可能性がある。

 2009年5月21日から施行される裁判員制度については、あまりにも、まだまだ議論が尽くされていない点が多すぎるように思われる。法と民主主義の今回の特集は、そのための議論の素材を私たちに提供してくれていると思う。

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【書籍】加茂隆康「死刑基準」

加茂隆康「死刑基準」

出版社 幻冬舎
定価 1,680円 (本体価格 1,600円)
ISBN  978-4-344-01586-9 C0093
発売日 2008/11/25

 加茂隆康氏は弁護士であり、交通事故専門の弁護士として知られており、 「弁護士カモ君のちょっ休廷」(角川書店)などのエッセイ集も執筆している。

 今回の作品は初めてのフィクションであり、法廷ミステリーである。私は、「死刑基準」というタイトルに惹かれて購入して読んだ。
 さすがに、文体は大変に読みやすく、一気に読ませる筆力がある。

 扱われる事件は、弁護士の妻が強姦され殺害されたという強姦、殺人事件。警察の捜査によって、逮捕されて起訴された男性には粗暴犯の前科があるとともに、我が子を殺されるという被害者になったという過去があり、強姦容疑は認めても、殺人を一貫して否認し続ける。一審では強姦、殺人が認められたが無期懲役刑となるが、控訴審で、次々と新たな証拠が出され、大きな展開がある。果たして、この被告人は死刑となるのかというものである。

 この小説の中で、被害に遭った弁護士が、「死刑廃止」論者から「死刑存置」論者に変わっていく様子が描かるが、その中で、死刑についてどのように考えるべきかが問題提起される。

 この小説の主人公は、被害に遭った弁護士の友人で、学者から検察官への道に転身しようとしている途中の司法修習生として、たまたま配属された事務所が、この刑事事件の控訴審の弁護人を引き受けることから、この事件を弁護する立場で活動していく中で、次々と新たな事実を見出していく様子が描かれる。

 刑事事件の控訴審の法廷シーンについては、実際の法廷ではありえない展開が多く、プロの立場からすると疑問を感じる点が多かったが(刑事事件の控訴審は事後審であるため、新しい証拠を取り調べることに極めて消極的である)、小説としては許されるのかもしれないが、少し違和感を感じた。また、事件の顛末についても、かなり無理があるように感じた。

 「死刑基準」という本のタイトルについても、この小説の顛末からすると、基準自体が重要な役割を果たしていないという点で、少々肩透かしをくった面もあった。

 ただ、刑事裁判のあり方や、死刑制度について、市民が考える材料を提供しようとしたという点では、読ませるための色々な工夫もあり、日本とドイツが舞台となるというスケールの大きさなど、「読ませる」作品には仕上がっていると思う。その意味で、弁護士業務の傍ら、このような大作を執筆したことは(毎日新聞の記事によると、5年を要したという)一定の評価に値すると思う。

 この作品が、刑事裁判のあり方に関心を持つ多くの市民に読まれることを期待したい。

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2009年2月 1日 (日)

【映画】「レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで」

「レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで」
監督 サム・メンデス
製作総指揮 ヘンリー・ファーネイン 、マリオン・ローゼンバーグ 、デヴィッド・M・トンプソン
原作 リチャード・イェーツ
脚本 ジャスティン・ヘイス
製作年度 2008年
上映時間 119分

  『タイタニック』のレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが11年ぶりに共演を果たし、作家リチャード・イェーツの小説を原作として、『アメリカン・ビューティー』の監督サム・メンデスが映像化した話題作である。

 1950年代半ばのアメリカの郊外のレボリューショナリーロード(革命通り)の一軒家で、美男(ディカプリオ)・美女(ケイト・ウィンスレット)の特別なカップルが主人公。

 それぞれが、夢を持って結婚生活を送っているが、その中で、女性の主人公は、日々の生活の中で不満を抱くようになり、パリへの移住を夫に提案する。
 夫は、その提案を受け入れ、近所の人や職場で、パリ移住の話をする中で、周りから非現実的な話だと受け止められる。
 やがて、夫は、職場でその能力を見出され、高給が得られる新しい職場へ誘われる。

 その中で、徐々に夫と妻の関係にずれが生じ、それぞれが浮気をしたりする中で、コミュニケーション不全の関係となっていき、最後に妻が一つの決断をし、実行する。

 この作品は、夫と妻の関係にずれが生じた後の過程を詳しく描いていく。その中で、妻と夫の認識のずれや覚悟の差違を明らかにしていく。

 この映画は女性にとっては共感できる内容であるが、男性にとっては「どうして?」という疑問を抱くのではないか。それが、男女の違いでもあり、そういうことを深く考えさせてくれる問題作と言えるだろう。

 舞台は1950年であるが、この作品が描き出す夫婦の関係は、今の夫婦関係とほとんど異ならず、その普遍性を感じさせる。

 『タイタニック』のレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの競演ということで甘いラブ・ストーリーだと思ってみると痛い目にあう映画だと思う。

【参考になる映画評】
 前田有一の超映画批評
 『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』75点(100点満点中)

 
 

 

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【漫画】佐々木倫子「チャンネルはそのまま!vol.1」

佐々木倫子「チャンネルはそのまま!vol.1」

著者 佐々木倫子
ISBNコード     9784091824509
判型/頁     A5判/230頁
定価     980円(税込)
発売日     2009/01/30

 本屋のレジ前に積まれていた佐々木倫子さんの「チャンネルはそのまま!vol.1」を衝動的に買って、一気に読んだ。
 私は、これまで佐々木さんの作品としては、「おたんこナース」や「Haaven?」などを読んでいた。
 この作品は、2008年から、ビッグコミック・スピリッツで月1回連載されているという。

 この作品は、北海道にある架空のテレビ局に、「バカ枠」で採用された女性記者・雪丸花子を主人公とする漫画である(もちろん、本人には「バカ枠」での採用とは知らされていない)。

 主人公がドジをして失敗を重ねながらも、それがなぜか不思議と、誰もが予想しない良い結果を生んでいく。それが、佐々木さんの味のある漫画に支えられて、非常に説得力を持っている。

 この作品では、同期入社のエリート男性記者との対比の中で、「バカ枠」の主人公が、ボロボロになりながらも活躍して、周りの人たちに愛されていくようになるところも面白い。

 一方で、この作品では、テレビ局の報道現場を題材にしていることから、テレビ・ジャーナリズムのあり方についても描いている(私はこの点にもっとも関心があった)。テレビ局の報道の裏側が描かれていて興味深い。

 今後の連載が楽しみで、これからは、ビッグコミック・スピリッツでの連載を読みたいと思った。


 

 

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【映画】誰も守ってくれない

映画「誰も守ってくれない」

監督 君塚良一
製作 亀山千広
製作年度 2008年
上映時間 118分l

 この映画は、「踊る大捜査線」のスタッフが、被疑者の家族の保護というテーマで、ある少年事件をめぐる警察官の活動を中心に描く作品である。
 その中で、主人公の刑事と、保護される被疑者の妹の交流と成長が描かれている。

 私も、これまで、何件か少年事件を担当する中で、その家族が、マスコミから激しい取材攻勢にあったり、被害者から「同じ地域にいてもらいたくない」と要請されて、引っ越しをせざるを得なくなる状況を目の当たりにして、被疑者の家族も、一種の「被害者」だと痛感していた。

 この映画では、犯罪捜査に当たっている警察が、被疑者の家族を保護するという仕事(警察は公には認めていないようであるが)をしている様子を描くことによって、被疑者の家族も「被害者」であるという側面を描いている。
 もちろん、この映画でも、被害者の家族を保護するのは、それ自体が目的ではなく、あくまでも家族から、被疑者の犯罪を立証するための供述を引き出すことが主目的であることは示されてはいる。

 この映画では、主人公の警察官(佐藤浩市)が、以前の業務中に、追跡していた被疑者によって、通行中の母親に連れられた子どもが殺されるに至ったという辛い事件を経験しており、そのために精神的な障害を追って通院治療を受けている。

 その被害者の両親(柳葉敏郎、石田ゆり子)が事件後に西伊豆で開いているペンションに、主人公の警察官は、被疑者の妹(志田未来)を連れていく。この場面では、改めて、「被害者」とは何かが問われる。すなわち、犯罪被害者は絶対的な「被害者」であるのに対して、被疑者の家族の「被害者」性とは質的に異なるのかが問われる。
 この場面が入ったことで、この映画は、より深みのあるものになったと思う。

 この映画では、マスコミによる被疑者の家族への執拗な追及だけでなく、インターネットの掲示板において、被疑者やその家族を追及していく様子も描かれている。ネット内では、この映画のように、被疑者の妹について、ここまで追及することはないのではないかとか、ネット住民が、わざわざ西伊豆のペンションまで行って、携帯電話のカメラで撮影するような行動的な訳がないなどの批判もある。しかし、この映画は、ネット社会の行き着く先を暗示するものとして、この場面を誇張して描いたのだろう。

 日本では、何か事件があると、「親の顔が見たい」と言い、マスコミは一斉に家族から謝罪のコメントをとろうとする。日本では、いまだに、「個人責任」は徹底しておらず、家族による「連帯責任」だと考える傾向が強い。過去にも、被疑者の家族が自殺したり、兄弟の結婚話が破談になったり、一家離散する例は多い。

 犯罪を犯した者とそれ以外の家族とは全く別人格であり、家族を追及することは無意味であり、かつ、有害であるという考え方が、日本にもそろそろ定着することを期待したい。

 私は、今回、このような地味で、今の世の中的にはどちらかというと共感を得られにくいテータを、商業映画として製作したことを評価したい。
 映画としては、ドラマチックに感動的に描くではなく、あえてドキュメンタリー風に淡々と描いているという点で(それでも色々とエンターテイメント面での工夫はある。主人公の相棒役の松田龍平はいい味を出していた)、映画的な感動や余韻は少ないかもしれないが、是非とも多くの人に見てもらいたい作品である。

【参考になる映画評】
 前田有一の超映画批評
『誰も守ってくれない』70点

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