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2009年7月25日 (土)

【書籍】副島隆彦・植草一秀「売国者たちの末路」

副島隆彦・植草一秀「売国者たちの末路

出版社 祥伝社
ISBNコード 9784396613341
判型/頁  四六判ハード/256頁
定価 1,680円(税込)
発売日 2009/06/22

 評論家である副島氏と経済学者である植草氏の対談本である。

 7月21日に衆議院が解散され、8月30日に衆議院選挙が行われる予定である。前回の解散は、小泉首相(当時)による郵政解散があり、自民党は圧勝して、与党で衆議院の3分の2の議席を獲得し、以後、参議院で野党が多数を占めた後も、参議院で否決された法案を、再議決によって次々と可決してきた。

 その郵政選挙の争点は、「郵政民営化」の是非であった。私は当時から、「郵政民営化」には反対だった。しかし、国民は、小泉首相(当時)の「改革」路線に騙されて、自民党を圧勝させてしまった。

 しかし、最近になって、「郵政民営化」、そして、小泉首相(当時)と竹中平蔵氏による「構造改革」路線によって、徹底的な経済の自由主義化(弱肉強食化)が推進されてきた結果、それまで日本は「1億総中流」と言われていたが、それが完全に崩壊し、「格差社会」が生まれた。
 これらは、言うまでもなく、小泉・竹中が行ってきた「構造改革」路線の結末である。

 本書は、その小泉・竹中による「構造改革」が、アメリカの影響下で行われてきたことや、その誤りを鋭く指摘するとともに、アメリカにおけるサブプライム・ローン破綻後の状況を踏まえて、今後の世界経済がどうなるかについて論じている。

 この中で語られる日本の財務省のあり方については、前に紹介した長谷川幸洋『日本国の正体』(講談社)で語られていた内容とほぼ同様であり、そこでも紹介されていた高橋洋一氏の窃盗罪での検挙についても触れられている。

 本書では、経済学者であり、小泉・竹中路線を批判し続けた植草氏が、2度も「痴漢」とされる「冤罪」被害を受けた経過についても詳しく述べられ、それが何らかの政治的背景に基づく「デッチ上げ」であることも語られている(2度目の「冤罪」事件について、2009年6月25日に最高裁が上告を棄却して、植草氏は、近日中に収監される見込みである)

 最近になって、国民も、ようやく小泉・竹中路線が、今の日本を経済をおかしくしたことに気づき始めているが、本書は、改めて、小泉・竹中路線が何を行ってきたのか、それがアメリカとどういう関係にあるのか、民主党の小沢氏の秘書がどうして検挙されたのか、などについて分かりやすく語りかけており、一気に読めるものとなっており、多くの国民が、是非とも読むべき1冊だと思う。

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2009年7月 7日 (火)

【書籍】長谷川幸洋「日本国の正体」

長谷川幸洋「日本国の正体

発行年月 2009年06月
発売元 講談社
ISBN 9784062950503

 中日新聞社の現論説委員が、これまで政府関係の審議会などに委員として出席したり、経済記者として取材をした経験から、日本を本当に動かしているのは政治家ではなく、官僚であり、重要な政策や法案は、全て官僚たちが自ら決定して、それを与党の政治家によって実現しているに過ぎないという「官僚内閣制」とでも言うべき実態を赤裸々に描いている。

 「三権分立」の建前から、メディアで働いている記者ですら、政策決定は政治家で行っていると誤解しているが、実際には、全て、官僚が決めており、政治家はその政策や法案を実現しているだけであると断言している。

 この本で、筆者は、経済政策を例にして、財務省が、いずれ増税を実現するという立場に立って、それに反対する動きをことごとく潰してきたと考えられることを指摘しているが(中川・前財務大臣の辞任問題、高橋洋一氏の逮捕)、非常に説得力がある。

 また、官僚たちは、入省時には誰でも理想を持っているが、やがて先輩の天下り先を確保することに汲々とするようになるという官僚体制の限界を明らかにしている。

 この本を読んで、まさに目から鱗が落ちる位、インパクトがあった。以前から、漠然として、日本は官僚が膨大な力や利権を持っているとは思っていたが、政策決定や法案作成のほとんどを官僚だけで決定し作成しているとの指摘は衝撃的ですらある。

 これを読むと、これは経済政策に限る話ではなく、刑事政策などの面でも、全く同様に、官僚が全て政策決定や法案の作成をしていると考えられるのであって、「議員内閣制」は完全に形骸化しており、国会が「国権の最高機関」であるということも形骸化していると言える。

 最近では、国会の審議が、形式化・セレモニー化しており、官僚が作成した法案に「お墨付き」を与えるだけの機関に成り下がっている。それは、参議院で野党が多数を占めて、いわゆる「ねじれ国会」になっても、本質的には変わっていない。

 これが、今度の衆議院選挙によって、仮に民主党が政権をとったとしても、官僚主義に根本的なメスを入れた改革をしないと、現在と大きく構造は変わらない恐れがある。

 その意味で、一体、今の日本の政策を決定しているのが誰なのか、国民の選挙を経た訳でもない官僚が、「国権の最高機関」を差し置いて政策決定していることは、三権分立に反するだけでなく、民主主義にも相容れないと言わなければならない。

 筆者は、「記者クラブ」が、この官僚による政策決定をそのまま報道してくれる「補完勢力」になっているとも批判している。記者クラブについては兼ねてから批判が多いが、マスコミ自身のあり方も大きく変える必要がある。

 本書は、改めて、表舞台から見えにくい官僚たちが、今の日本を動かしていることを白日の下に晒した書であり(同じ筆者には、まだ読んでいないが、『官僚との死闘700日間』講談社がある)、私たち市民にとって必読だと思う。

 日本に根付き、今の日本を左右する大きな存在となった官僚制度について、根本的な改革が求められている。

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2009年2月24日 (火)

【書籍】原 寿雄「ジャーナリズムの可能性」

原 寿雄「ジャーナリズムの可能性

定価 735円(本体 700円 + 税5%)
判型 新書判(岩波新書)
発売日 2008年1月20日
ISBN978-4-00-431170-6

 本書は、原寿雄さん(ジャーナリスト、元共同通信編集主幹)による岩波新書である。原さんには同じ岩波新書で『ジャーナリズムの思想』(1997年)があるが、本書はその続編のつもりで執筆されたという(本書はじめに)。

 本書は、以下の9章からなっている。

序 章 問われるジャーナリズムの権力観
第1章 権力監視はどこまで可能か
第2章 強まる法規制と表現の自由
第3章 ジャーナリズムの自律と自主規制
第4章 放送ジャーナリズムを支えるもの
第5章 世論とジャーナリズムの主体性
第6章 ジャーナリズムは戦争を防げるか
第7章 ジャーナリズム倫理をいかに確立するか
終 章 ジャーナリズム再生をめざして


 本書には、つい最近まで、メディアをめぐって起きた様々な出来事が取り上げられ、ジャーナリズムという観点からの評価が述べられており、実に刺激的である。
 例えば、警察裏金報道(本書34頁以下)、NHK番組改編事件(同72頁以下)、「発掘!あるある大辞典Ⅱ」番組捏造事件(同94頁以下)、光市事件報道(同124頁)などがそれである。

 また、本書では、ジャーナリズムが、戦争についてどのような役割を果たすことができるかについて、戦前のメディアの対応と、911以降、特にイラク戦争へのメディアの対応について論じているが、非常に考えさせられる内容である。

 本書は、ジャーナリズムは、「権力監視の番犬(Watch Dog)」として、あくまでも民衆から付託された権力の監視や社会正義の追及という役割を担うべきであるという立場に立っている(本書はじめに、同26頁)。

 「ジャーナリズムは権力を監視し、社会正義を実現することで、自由と民主主義を守り発展させ、最大多数の最大幸福を追求する。人権擁護はもちろんのこと、自然環境の保護も、人間性を豊かにする文化の育成も、ジャーナリズムに期待される機能である。」(同書194頁)

 この部分に、本書での主張が端的に要約されていると言えるだろう。その上で、原さんは、デジタル化、他メディア化の時代に、ジャーナリズムがどのように生き残っていくべきかを終章で論じている。

 最近の政治報道を見ても、メディアが権力に逆らうのではなく、うまく利用されてしまって、権力監視の役割を十分に果たしていないように見える。そのような中で、本書の主張は新鮮であり、情報の受け手である私たち市民にとっても必読の書であると感じた。

 読者であり、情報の受け手である私たちは、日本のメディアが今のままでは駄目であり、変わらなければならないという声をあげることが求められているように感じた。

【2009.2.28追記】

 この本を読んで、改めて、ジャーナリズムというのは、時には違法行為をしてでも、市民に伝えるべき情報を伝達すべきであるということを感じた。残念ながら、日本のジャーナリズムは、大変にお行儀がよく、権力には決して逆らわないという特色がある。権力と闘うということは、時には逮捕され刑事裁判にかけられることを覚悟してでも、情報源にアクセスし、ネタを掴み、それを報道することが求められているはずである。マスコミは、市民に対して違法行為をすべきではないことは当然としても、権力に対しては、時には違法行為も覚悟してやるべきである。

 本書では、菅生事件に触れつつ、原さんは、次のように述べている。

  「民主主義は多数決の原理で運営される。これに対して表現の自由は、『たった一人の異端の自由を保障するもの』であり、多数決原理と衝突する。」、「ジャーナリストとして、世の中の大勢に流されずに、“非国民”と呼ばれることに臆せず生きる道は、自由人に徹するしかない。」(同書172頁)

 新聞社やテレビ局も会社である以上、コンプライアンス(法令遵守)が求められるが、ジャーナリズムの本質からすれば、それは対市民との関係でのもので、対権力との関係ではその例外があると考える必要がある。

 なお、醍醐教授による本書の書評が優れていると思うので、是非お読みいただきたい。なお、私は、原さんの主張は、ラジカルというよりも、リベラルだと思う。今の時代においては、リベラルな姿勢を貫くことこそが大事ではないかと思う。

【参考になる書評】

醍醐「ジャーナリズムの真髄をラジカルに綴った警世の書:原寿雄『ジャーナリズムの可能性』(岩波新書、2009年1月刊)を読んで」

美浦克教「読書:「ジャーナリズムの可能性」(原 寿雄 岩波新書)」

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2009年2月 4日 (水)

【書籍】浜田寿美男「心はなぜ不自由なのか」

浜田寿美男「心はなぜ不自由なのか

定価 777円(本体価格740円)
判型 新書判
発売日 2009年01月15日   
ISBN 978-4-569-70510-1

 発達心理学者である浜田寿美男教授(奈良女子大学文学部)による新書。内容は、連続講座「人間学アカデミー」第3期(2003年9月~2004年7月)の講義録をもとに編纂されたもので、3回の講義が収録されている。

第1回講義 取調室のなかで「私」はどこまで自由か
第2回講義 この世の中で「私」はどこまで自由か
第3回講義 「私」はどこまで自由か

 私自身は、このうち、第1回講義の内容に関心があって、本書を購入した。

 過去の冤罪事件において、本人はやってもいないのに「自白」することは多くある。特に、罪を認めたら死刑になるような事件においても、虚偽の「自白」をさせられているケースは多い。
 おそらく、ほとんどの市民の人たちは、自分がやってもいないことを「自白」することはありえないと考えるだろう。そして、裁判官も、この「常識」的な判断に支配されており、過去に、この種の「自白」がある事件をほとんど有罪にしてきた。

 刑事裁判の実務では、捜査段階で「自白」がとられ、自白調書が存在する事件においては、裁判所が、その「自白」について、任意性がない、すなわち、自由になされたものではない「自白」であると判断することは稀であり、無罪にする場合でも、任意性は否定しないが、その信用性を否定するのが普通である。
 例えば、昨年話題になった鹿児島県の志布志事件(選挙違反事件)の無罪判決においても、任意性は否定せずに、その信用性を否定して、「虚偽自白」だとしている。

 浜田寿美男さんは、かねてから、「虚偽自白」の心理学的な分析を数多く行い、この分野での第一人者となっている。本書では、自分が特別弁護人として関わったいわゆる甲山(かぶとやま)事件などの経験を通して、取調室において、被疑者は「自由」か、という問題を論じている。
 浜田さんには、既に、これまでに、「自白の研究―取調べる者と取調べられる者の心的構図【新版】』(北大路書房、2005年) という大著もあり、また、「自白の心理学」(岩波新書、2001年)や「取調室の心理学」(平凡社新書、2004年) Iなど、この問題について何度も取り上げて論じられている。

 本書の第1回講義では、そのエッセンスが、「自由」という観点から書かれており、裁判員裁判に関心がある市民には是非読んでいただきたい内容となっている。

 本書の第2回講義では、「羞恥心」という観点から、人がどれだけ「自由」かについて様々な角度から論じ、第3回講義では、昆虫と人間の比較などを通じて、やはり、人はどれだけ「自由」かという問題を論じている。正直言って、この第2回講義と第3回講義の内容は、いろいろな実例を通して語られてはいるものの、かなり難しい内容となっているように思う。

 ただ、本書は、「自由」と「不自由」が相対的なものであること、そして、人にとって、「自由」が拡がっていくほど、「不自由」も拡がっていることなどを教えてくれる。このような理解は、第1回講義で語られる取調室での「不自由」さを理解するのに役立つと言える。

 人間心理を理解する上で、本書は一つの視点を与えるという点で、本書は実に示唆に富んだ本だと思う。

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2009年2月 3日 (火)

【書籍】加茂隆康「死刑基準」

加茂隆康「死刑基準」

出版社 幻冬舎
定価 1,680円 (本体価格 1,600円)
ISBN  978-4-344-01586-9 C0093
発売日 2008/11/25

 加茂隆康氏は弁護士であり、交通事故専門の弁護士として知られており、 「弁護士カモ君のちょっ休廷」(角川書店)などのエッセイ集も執筆している。

 今回の作品は初めてのフィクションであり、法廷ミステリーである。私は、「死刑基準」というタイトルに惹かれて購入して読んだ。
 さすがに、文体は大変に読みやすく、一気に読ませる筆力がある。

 扱われる事件は、弁護士の妻が強姦され殺害されたという強姦、殺人事件。警察の捜査によって、逮捕されて起訴された男性には粗暴犯の前科があるとともに、我が子を殺されるという被害者になったという過去があり、強姦容疑は認めても、殺人を一貫して否認し続ける。一審では強姦、殺人が認められたが無期懲役刑となるが、控訴審で、次々と新たな証拠が出され、大きな展開がある。果たして、この被告人は死刑となるのかというものである。

 この小説の中で、被害に遭った弁護士が、「死刑廃止」論者から「死刑存置」論者に変わっていく様子が描かるが、その中で、死刑についてどのように考えるべきかが問題提起される。

 この小説の主人公は、被害に遭った弁護士の友人で、学者から検察官への道に転身しようとしている途中の司法修習生として、たまたま配属された事務所が、この刑事事件の控訴審の弁護人を引き受けることから、この事件を弁護する立場で活動していく中で、次々と新たな事実を見出していく様子が描かれる。

 刑事事件の控訴審の法廷シーンについては、実際の法廷ではありえない展開が多く、プロの立場からすると疑問を感じる点が多かったが(刑事事件の控訴審は事後審であるため、新しい証拠を取り調べることに極めて消極的である)、小説としては許されるのかもしれないが、少し違和感を感じた。また、事件の顛末についても、かなり無理があるように感じた。

 「死刑基準」という本のタイトルについても、この小説の顛末からすると、基準自体が重要な役割を果たしていないという点で、少々肩透かしをくった面もあった。

 ただ、刑事裁判のあり方や、死刑制度について、市民が考える材料を提供しようとしたという点では、読ませるための色々な工夫もあり、日本とドイツが舞台となるというスケールの大きさなど、「読ませる」作品には仕上がっていると思う。その意味で、弁護士業務の傍ら、このような大作を執筆したことは(毎日新聞の記事によると、5年を要したという)一定の評価に値すると思う。

 この作品が、刑事裁判のあり方に関心を持つ多くの市民に読まれることを期待したい。

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